仲尾次政隆のこと
今日は琉球の真宗門徒のはじまりである仲尾次政隆(宇氏五世)のお話をします。
当時、真宗は国元(薩摩)で御禁制になっていました。そこで、薩摩の場合は「カヤカベ」という特異な念仏集団ができました。
で、政隆も何度か薩摩へ行っているようなのでそこから情報を仕入れたのでしょう。当時、なぜ真宗が御禁制になっていたかというと、やはり「一向一揆」の怖さを知っていたからでしょう。見つかったら獄門・打ち首でしたからね・・・。
政隆は琉球でも御禁制となっていた真宗の布教を開始します。しかし、それまでの政隆の出世は華々しいものでした。30歳で「親方」までなりました。政隆は当初、辻の尾類(じゅり)や下級士族相手に布教をしており、泉崎の自宅を布教所としていました。これは人目を避けるためでしたが、どこからか王府に見つかってしまい、八重山流罪となりました。
八重山で仲尾次家の血を受け継ぐのは伯言姓の人々です。流罪になった政隆は宮良橋の再建に尽力し、農民から感謝され、とうとう宮良間切の頭職から「赦免願」が王府へ提出されました。そして政隆は晴れて那覇へ戻ってきたのです。これが1865年のことです。しかし、この6年後に政隆は亡くなります。しかし、真宗は沖縄に根付くことなく終わってしまったようですが。・・・。結局、この後本格的な真宗は明治になってから布教が開始されたので政隆の流れをくむ寺は存在しないようですね・・・・。
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