2006年07月01日
仲尾次政隆のこと
今日は琉球の真宗門徒のはじまりである仲尾次政隆(宇氏五世)のお話をします。
当時、真宗は国元(薩摩)で御禁制になっていました。そこで、薩摩の場合は「カヤカベ」という特異な念仏集団ができました。
で、政隆も何度か薩摩へ行っているようなのでそこから情報を仕入れたのでしょう。当時、なぜ真宗が御禁制になっていたかというと、やはり「一向一揆」の怖さを知っていたからでしょう。見つかったら獄門・打ち首でしたからね・・・。
政隆は琉球でも御禁制となっていた真宗の布教を開始します。しかし、それまでの政隆の出世は華々しいものでした。30歳で「親方」までなりました。政隆は当初、辻の尾類(じゅり)や下級士族相手に布教をしており、泉崎の自宅を布教所としていました。これは人目を避けるためでしたが、どこからか王府に見つかってしまい、八重山流罪となりました。
八重山で仲尾次家の血を受け継ぐのは伯言姓の人々です。流罪になった政隆は宮良橋の再建に尽力し、農民から感謝され、とうとう宮良間切の頭職から「赦免願」が王府へ提出されました。そして政隆は晴れて那覇へ戻ってきたのです。これが1865年のことです。しかし、この6年後に政隆は亡くなります。しかし、真宗は沖縄に根付くことなく終わってしまったようですが。・・・。結局、この後本格的な真宗は明治になってから布教が開始されたので政隆の流れをくむ寺は存在しないようですね・・・・。
当時、真宗は国元(薩摩)で御禁制になっていました。そこで、薩摩の場合は「カヤカベ」という特異な念仏集団ができました。
で、政隆も何度か薩摩へ行っているようなのでそこから情報を仕入れたのでしょう。当時、なぜ真宗が御禁制になっていたかというと、やはり「一向一揆」の怖さを知っていたからでしょう。見つかったら獄門・打ち首でしたからね・・・。
政隆は琉球でも御禁制となっていた真宗の布教を開始します。しかし、それまでの政隆の出世は華々しいものでした。30歳で「親方」までなりました。政隆は当初、辻の尾類(じゅり)や下級士族相手に布教をしており、泉崎の自宅を布教所としていました。これは人目を避けるためでしたが、どこからか王府に見つかってしまい、八重山流罪となりました。
八重山で仲尾次家の血を受け継ぐのは伯言姓の人々です。流罪になった政隆は宮良橋の再建に尽力し、農民から感謝され、とうとう宮良間切の頭職から「赦免願」が王府へ提出されました。そして政隆は晴れて那覇へ戻ってきたのです。これが1865年のことです。しかし、この6年後に政隆は亡くなります。しかし、真宗は沖縄に根付くことなく終わってしまったようですが。・・・。結局、この後本格的な真宗は明治になってから布教が開始されたので政隆の流れをくむ寺は存在しないようですね・・・・。
Posted by 琉王 at 22:41│Comments(2)
│沖縄の人物
この記事へのコメント
はじめまして兵庫県神戸市在住の者です。
「仲尾次政隆のこと」大変興味を持って読ませていただきました。
このブログ以外にご存知の事を教えていただき思います、ヒントになる書籍でも結構です、よろしくお願いします。
「仲尾次政隆のこと」大変興味を持って読ませていただきました。
このブログ以外にご存知の事を教えていただき思います、ヒントになる書籍でも結構です、よろしくお願いします。
Posted by 加久石 幸三 at 2007年12月13日 21:37
政隆の子孫に当たるものです。
実家を建て替えることになり、亡くなった祖父の遺品を整理していましたら
沖縄に関する資料が出てきました。
古い本ばかりで現在は購入できないと思いますが
法政大学に政隆を研究している人がいて、論文を書いているはずです。
ネット検索すると、琉球偉人伝など漫画やらいろいろヒットします。
実家を建て替えることになり、亡くなった祖父の遺品を整理していましたら
沖縄に関する資料が出てきました。
古い本ばかりで現在は購入できないと思いますが
法政大学に政隆を研究している人がいて、論文を書いているはずです。
ネット検索すると、琉球偉人伝など漫画やらいろいろヒットします。
Posted by ナカハマ at 2009年10月29日 23:07