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2006年02月19日

八重山の戦争

 さて、一般的には「本島は戦争被害がすごかったけど、宮古や八重山なんてたいしたことなかったんじゃない?」というのが大方の認識でございます。
   が!!
そんなことを思っていてはイケマセンぞ、そこのアナタ。
八重山や宮古といった先島では、戦争で破壊されることこそなかったものの、人がやっぱり大量に亡くなってます。ということで、二回に分けて「先島の戦争被害」を語ります。今回は「八重山の戦争」です。
当時は石垣町(現在は市)に特攻隊の飛行場が存在したため、連日のように空襲はあって、当時の八重山郡全体で3万ちょっとしかいなかったところへ兵隊が1万名以上投入されたわけです。当然のように宿舎などが間に合うはずもなく、「軍民雑居」という奇妙な形態が発生したんですね。また、その後の話ですけれど、高射砲で撃ち落とされた爆撃機の乗組員3名を捕虜として、リンチのような形態で「訓練」と称して銃剣で刺し殺した事件があったんです。これは戦後GHQによって首謀者七名が絞首刑になってます。これを「石垣島事件」という。さて、「八重山では米軍上陸もなく、地上戦も行われなかった」ということですが、本島南部の「平和の礎」には6000人以上の「ヤイマピトゥ」の名前が入ってます。これはなぜか。答えは「戦争マラリアでやられたから」です。この戦争マラリアで壊滅状況に陥ったのが波照間島でした。波照間にはもともとマラリアは存在しなかったのですが、1945年のある日、山下虎雄(陸軍軍曹)が学校の先生として赴任してきて、3月に西表への強制移住命令を出したのです。村長は「マラリアが怖いので疎開はやめてくれ」といったんですが、山下は「疎開しなければ斬る!!」といい、波照間の住民は西表島の南端、南風見に住むことになったのです。しかし、移住の時期が悪かったんですよ。ちょうどマラリアを媒介する「ハマダラカ」の活動し始める時期と重なってしまい、4ヵ月後にはマラリアで50人死亡しているんですわ。そして、村ができないとわかるとみな波照間へ戻ってきたのですが、ここからが「マラリア地獄」で、南風見にいた人間の9割が程度の差こそあれマラリアに感染していて、当時の波照間の島民の3割くらいがマラリアで亡くなってます。
武装解除は8月25日で本島と同じです。生き残った兵隊は9000人でした。つまり、兵隊も1割ちょっとはマラリアで死んでるわけですな・・。明日は宮古島の戦争です。こういう離島の資料ってなかなかないんだよね・・・・。


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Posted by 琉王 at 23:59│Comments(0)沖縄の戦争
 
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