2006年02月22日
慶良間の凄惨なる悲劇
さて、予告の題名と変わってますが、あの後調べたら慶良間諸島ではどの島も同じことが起きてたらしいので題を変更しました。
沖縄のことわざに「「慶良間見ゆしが睫毛や見らん」というのがありますが、これは「灯台もと暗し」と同じことです。また、戦前の慶良間は森林資源も豊富で「ケラマ薪(タムン)」といって森林の少ない沖縄にあって重宝されていました。さらに、カツオ漁も盛んで、「ケラマカツオ」といって、那覇や首里で消費される鰹節はほとんどケラマ舟によって本島へ運ばれました。そして現在でもカツオの一本釣りを見ることができます。
さて、この沖縄八景に数えられるような慶良間諸島ですが、戦争はこの美しき島々をも容赦なく襲いました。昭和20年3月26日、阿嘉島に上陸した米軍はほぼ同時に慶良間諸島を制圧しました。有人島の慶留間、座間味、渡嘉敷には日本軍の海上特攻艇が配備されていましたがまったく意味をなさなかったのです。そして、配備されていた日本軍は山に隠れ、米軍と日本軍の板ばさみ状態になった住民たちは自害をはかったのです。しかし、慶良間の場合は本島とはまた様相が異なっていました。何にしても狭い島だからどこかへ逃げようもない、だけれども山へ行けば日本軍がうるさい、アメリカーは怖い ということで住民同士が鎌や石、手榴弾などで殺し合いをしたそうです。現在、渡嘉敷島には「白玉の塔」、座間味島には「平和の塔」という慰霊碑がそれぞれ建立されています。有人島三つで600名あまりの死者が出たと言うことです。さて、明日は沖縄の政治に多大なる影響を与えた人物、瀬長亀次郎についてのお話です。お楽しみに。
沖縄のことわざに「「慶良間見ゆしが睫毛や見らん」というのがありますが、これは「灯台もと暗し」と同じことです。また、戦前の慶良間は森林資源も豊富で「ケラマ薪(タムン)」といって森林の少ない沖縄にあって重宝されていました。さらに、カツオ漁も盛んで、「ケラマカツオ」といって、那覇や首里で消費される鰹節はほとんどケラマ舟によって本島へ運ばれました。そして現在でもカツオの一本釣りを見ることができます。
さて、この沖縄八景に数えられるような慶良間諸島ですが、戦争はこの美しき島々をも容赦なく襲いました。昭和20年3月26日、阿嘉島に上陸した米軍はほぼ同時に慶良間諸島を制圧しました。有人島の慶留間、座間味、渡嘉敷には日本軍の海上特攻艇が配備されていましたがまったく意味をなさなかったのです。そして、配備されていた日本軍は山に隠れ、米軍と日本軍の板ばさみ状態になった住民たちは自害をはかったのです。しかし、慶良間の場合は本島とはまた様相が異なっていました。何にしても狭い島だからどこかへ逃げようもない、だけれども山へ行けば日本軍がうるさい、アメリカーは怖い ということで住民同士が鎌や石、手榴弾などで殺し合いをしたそうです。現在、渡嘉敷島には「白玉の塔」、座間味島には「平和の塔」という慰霊碑がそれぞれ建立されています。有人島三つで600名あまりの死者が出たと言うことです。さて、明日は沖縄の政治に多大なる影響を与えた人物、瀬長亀次郎についてのお話です。お楽しみに。
Posted by 琉王 at 19:20│Comments(6)
│沖縄の戦争
この記事へのコメント
慶良間は確か、沖縄の中で最初に米軍に制圧された島なんですよね~…(違ったかな?)
結局、島の人たちは何のために
命を絶たなければいけなかったのでしょう…
アメリカーに殺されるくらいなら、
血縁者や知人に殺されたほうがマシと
互いに殺しあうなんて、
自分たち本位の軍人(やまとんちゅ)に殺されたも同然ですよね。
は~…やっぱり知れば知るほど
学生時代、何を教えられたんだろう
何を勉強したんだろう…
と思いマス。
結局、島の人たちは何のために
命を絶たなければいけなかったのでしょう…
アメリカーに殺されるくらいなら、
血縁者や知人に殺されたほうがマシと
互いに殺しあうなんて、
自分たち本位の軍人(やまとんちゅ)に殺されたも同然ですよね。
は~…やっぱり知れば知るほど
学生時代、何を教えられたんだろう
何を勉強したんだろう…
と思いマス。
Posted by まちゃこ at 2006年02月24日 00:59
>まちゃこさん
大正解です。サイパンから来た米軍が真っ先に制圧したのが慶良間諸島だったんです。そして、殺し合いが起きたのです。そして、米軍は首里から10kmほど沖にある神山島と言うところに高射砲を設置して本島南部を攻撃したんです。それで首里城(戦前は国宝)も焼けてしまったわけです。そのうちに従軍学徒看護婦のひめゆりなんかについても書きたいと思ってます。学徒隊は5つの学校から集められたのでそれぞれ名前があるんです。予定変えてそれ書こうかな・・・?
大正解です。サイパンから来た米軍が真っ先に制圧したのが慶良間諸島だったんです。そして、殺し合いが起きたのです。そして、米軍は首里から10kmほど沖にある神山島と言うところに高射砲を設置して本島南部を攻撃したんです。それで首里城(戦前は国宝)も焼けてしまったわけです。そのうちに従軍学徒看護婦のひめゆりなんかについても書きたいと思ってます。学徒隊は5つの学校から集められたのでそれぞれ名前があるんです。予定変えてそれ書こうかな・・・?
Posted by yoshi at 2006年02月24日 21:25
ひめゆりの話、興味あります!とても。
ひめゆりの塔で語ってくださっている
おばぁたちも年々少なくなっていますよね
(祈念館内での語りがなくなると言う話しを聞きました)
お話しを聞けなくなるのはとても残念です…
あ。そうだ。
yoshiさんのBlog、私のお気に入りに追加させていただいても
よいでしょうか?
ひめゆりの塔で語ってくださっている
おばぁたちも年々少なくなっていますよね
(祈念館内での語りがなくなると言う話しを聞きました)
お話しを聞けなくなるのはとても残念です…
あ。そうだ。
yoshiさんのBlog、私のお気に入りに追加させていただいても
よいでしょうか?
Posted by まちゃこ at 2006年02月24日 22:48
>まちゃこさん
それはありがとうございますです。こちらもまちゃこさんのブログをお気に入りに入れておきます。ひめゆり、積徳、梯梧、白梅、ずゐせん、この四つが基本的に学徒看護部隊だったのです。ひめゆりばかりクローズアップされてますが、後三つはみんなまったく知りません。ですのでマイナーどころから行こうと思ってます・・・。
それはありがとうございますです。こちらもまちゃこさんのブログをお気に入りに入れておきます。ひめゆり、積徳、梯梧、白梅、ずゐせん、この四つが基本的に学徒看護部隊だったのです。ひめゆりばかりクローズアップされてますが、後三つはみんなまったく知りません。ですのでマイナーどころから行こうと思ってます・・・。
Posted by yoshi at 2006年02月25日 22:07
>まちゃこさん
それはありがとうございますです。こちらもまちゃこさんのブログをお気に入りに入れておきます。ひめゆり、積徳、梯梧、白梅、ずゐせん、この四つが基本的に学徒看護部隊だったのです。ひめゆりばかりクローズアップされてますが、後三つはみんなまったく知りません。ですのでマイナーどころから行こうと思ってます・・・。
それはありがとうございますです。こちらもまちゃこさんのブログをお気に入りに入れておきます。ひめゆり、積徳、梯梧、白梅、ずゐせん、この四つが基本的に学徒看護部隊だったのです。ひめゆりばかりクローズアップされてますが、後三つはみんなまったく知りません。ですのでマイナーどころから行こうと思ってます・・・。
Posted by yoshi at 2006年02月25日 22:08
こんばんわ^^
集団自決についてはまだ生きている当時の
人たちがいますのでよく調べてかいてね^^
住民のひとたちの多くの証言があるので調
べて下さい^^戦争が終わって60年当時14
歳の少女は74歳になりました^^
集団自決についてはまだ生きている当時の
人たちがいますのでよく調べてかいてね^^
住民のひとたちの多くの証言があるので調
べて下さい^^戦争が終わって60年当時14
歳の少女は74歳になりました^^
Posted by yuta at 2006年04月09日 21:36